イワケーン日記

何かを巻き起こす良いハリケーンでいたい。建築・インテリアデザインの仕事がメインです。このブログに書いているのは正しい意見ではなく、「僕が感じたこと」の記録です。@iwakeen1017

【読書感想】人生の短さについて セネカ

 

1.セネカとは何者か。 

本書は、古代ローマの哲学者セネカの思想に触れるための代表作の一つです。セネカが生きた1世紀のローマは激動の時代でした。初代ローマ皇帝のアウグストゥスの優れた政治により一時は収まりを見せたローマも、アウグストゥス没後は、わずか50年間でティベリウス、カリグラ、クラウディス、ネロという悪名高い皇帝らを次々に生み出して不安定な時代に突入していく最中でした。セネカはその不安定な時代にローマ帝国の政治の中心で活躍した人物です。カリグラ皇帝の時代に政治の世界に入り、皇帝と確執も経てクラウディス皇帝の時代には、コルシカ島に8年間の追放をされる苦難を過ごしました。次の皇帝であるネロの教育者として復帰後、ネロが皇帝に就任した際は補佐役として活躍します。しかし、最後はネロに謀反の疑念も持ちかけられ自ら命を絶つことになるのです。 

激動を生きたセネカは、古代ギリシャで生まれた哲学の学派である「ストア派」の教えを支持してきました。ストア派哲学はストイックの語源にもなっているため想像しやすく、理性に従い禁欲を推奨するもので実践哲学です。強い精神力をこの哲学によって鍛錬が故に波乱の人生をも乗り切ることができたのでしょう。2000年前に書かれたその真髄を本書で味わうことができます。

 

2.人生の短さについての内容

 さて、本書はセネカがパウリヌスという若い人物に当てて綴られた文書です。当時、国家の食糧管理の仕事に就いていたパウリヌスの職務は非常に責任の重く多忙を極めるものでした。それに対し閑暇な生活を送る様に勧めています。

 

人生は使い方次第で長くなる。短くしているのは我々の無駄な時間の消耗である

パウリヌスさん、大部分の人は自然の悪意を嘆いてこう言っている「我々が生きられる時間はとても短い。しかも我々に与えられる時間はあっという間に素早く過ぎ去ってしまう」。だが決して我々が手にしている時間は、決して短くない。むしろ我々がたくさんの時間を消費しているのだ。実際、人の生は十分に長い。そして偉大な仕事を成し遂げるに足る時間が惜しみなく与えられているのである。ただし、それらは人生全体が有効に費やされるならの話である。つまり、我々は短い人生を授かったのではない。我々が人生を短くしているのだ。我々は人生に不足などしていない。我々が人生を消費しているのだ。

 

これは本書において最も重要な指摘です。過去の偉大な人間から今日の電車に乗っているであろう見知らぬサラリーマンまで、おそらく全ての人は「時間がもう少しあれば、人生は短い」と考えているでしょう。しかし、その考えにセネカは待ったをかけます。人生は長い、ただ短くしているのは他ならぬ自身の無駄な行動による時間の消費が原因ですよと説いているのです。それでは具体的にどの様な行動が時間の消費に当たるのでしょうか。続きを見てみましょう。

 

3.人生を無駄にしている具体的な時間

ある者は飽くなき貪欲に取り憑かれ、ある者は無益な仕事に汗を流す。ある者は酒浸りとなり、ある者は怠惰にふける。ある者は政治への野心に終われ疲れ果てる。ある者は感謝もされないのに偉い人たちにおもねり、自分から進んで奴隷の様に奉仕して見をする減らす者たちもいる。また、私は老人の中から一人を捕まえこう言ってやりたいのだ。あなたの人生の総決算をいたしましょう。計算してください。あなたの生涯から債権者によって奪われた時間はどれだけですか。愛人によって奪われた時間はどれだけですか。手下によって奪われた時間はどれだけですか。夫婦喧嘩によって奪われた時間はどれだけですか。務めを果たすために街中を歩きまわった時間はどれだけですか。次に自らの招いた病気によって失われた時間を加えなさい。あなたの手元に残る年月は今足し合わせていった失われた時間より短いのですよ。しかもそれらを失う時、あなたは何を失っているかに気づいていなかったのです。もうお分かりでしょう。あなたは人生を十分に生きることなく死んでいくのです。60歳で仕事から解放されるからそのあとに好きな事をしようと考えているが愚かな事だ。人生の残りカスを自分のためにとっておき、好きな精神的活動のためになんの仕事もできなくなった時間しか充てがうなど恥とは思わないのか。生きる事をやめなければならない時に生きる事を始めるとは、遅すぎるのではないか。その様なわけで、ある人が髪の毛が白いとか顔にシワが寄っているからといって長く生きてきたと認める理由にはならない。その人は、長く生きていたのではない。単に長く存在していただけなのだ。

 

一部を抜粋しただけであり実際の文章にはもっと書かれています。列記してみると消費される時間の種類に古代も現代も差がないことに気がつきます。つまり、現代の私たちにも直結する具体的な無駄な消費時間であると理解できます。一般的に無駄な時間をイメージした際に、念頭に浮かぶのは、ボーッとしたり、ダラダラしたりする時間ですが、それらはもちろんセネカは他人や他用によって奪われる時間も自分と向き合うことができないとし無駄と指摘します。定年退職や単に存在していただけと指摘があり私は思わず怖くなってしまいました。自分の時間と他とを明確に区別しなければいけません。その判断は自分で決めるべきですが、本書の具体的な指摘はその参考になるのではないでしょうか。そうでなければ「〜だから」という後付けの理由でいくらでも無駄な時間を作り出すことができてしまうからです。

 ではセネカはこの様な時間を削り取りその代わりにどの様な時間を自分に費やせばよいと示すのでしょうか。

 

4.生涯の無駄の時間を削り、閑暇に投じよ

多忙な生活から離れ、本当の人生を生きなさい。

あなたの仕事は国民の生活に直結する非常に重要な職務である。しかし、あなたの人生を幸福をもたらしてはくれない。よく考えてほしい。あなたは若い頃から、教養を身につけるためにあらゆる教育を受けてきた。だがそれは大量の穀物を上手に管理するためではなかったはずだ。あなたが大志を抱いたのはもっと崇高な仕事だったではないか。几帳面で仕事熱心な人間なら他にいくらでもいる。荷物を運ぶには、歩みの遅い家畜の方が、血統の良い馬よりもはるかに適している。わざわざ重い荷物を載せて生まれながらの俊足を台無しにしてしまう様なものがどこにいるというのか。その様な多忙ではなく閑暇を求めなさい。ただし、閑暇に暇な時間を求めてはいけません。自分自身が本当になすべきことに向き合うために使いなさい。

 

こちらも一部抜粋及び要約した内容です。閑暇の対立概念である多忙とは、たくさんの仕事や用事に終われて忙しいことです。忙しいは「心を亡くす」、つまり心に余裕がない状態を指しています。では仕事や用事に追われなければ閑暇を得ることができるのか。実はそれだけでは不十分です。解放された自分の時間の中に、自分の心が戻っていなければなりません。自分が戻るとは、その時間の中で我々が自分自身と向き合い、自分が本来なすべき事をしている状態です。この時、自分自身と向き合うことを嫌がり、なすべき事を何もなしていない状態が、セネカの批判する「暇な時間」と捉えることができます。

 

5.閑暇な時間とは、英知を求めることである

この様にセネカの言う閑暇の中で我々がなすべきこととはなんでしょうか。セネカによれば、それは、英知を求め、英知に従って生きることです。英知とは何を指すのか。またどの様にして求めるのか、ヒントは過去、現在、未来の時間の捉え方にあるとセネカは言います。

 

真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある

 全ての人間の中で閑暇な人と言えるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。その様な人だけが生きていると言える。その様な人は、自身の人生を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、全ての時代を付け加えることができるからだ。我々はソクラテスと共に議論することが許されている。カルネアデスと共に懐疑することが許されている。ストア派の哲人達と共に人間の性に打ち勝つことが許されている。彼らはいつだって時間を空けてくれるしあなたに死を強要しない。むしろあなたに死を共有するだろう。これらに対し、過去を忘れ現在をおろそかにし、未来を恐れる人たちの生涯は極めて短く不安に満ちている。これらの人々は死が間近になって自分が長い間ただ多忙なばかりで、何も意味のある事をしてこなかったことに気がつく。しかし、その時にはもう手遅れなのだ。

 

セネカは「過去」を最重要として挙げています。しかし過去の意味は単に自分の人生の過去のみだけではなく、全ての過去を指しています。つまりは人類全体の過去という事です。それを意識することができれば、過去に哲人らが検討してきた内容にいつでも議論を交えることができ収穫することが無限にあると示し、これを英知であると定義します。未来は不確定であり予測が困難です。今を失わないためにセネカは、過去としっかり向き合うべきだと言っています。

 

6.感想

 本書の出会いは、時間は有限であるから自分で何に使うべきかしっかり検討する必要があると考え始めた頃でした。しかしその考えていた頃は二十代後半で、身体の最盛期の時期を過ぎた頃だと思っておりました。そのため本書を読んだときは非常に落ち込みました。何故ならば本書に書いている無駄な時間が大いに当てはまったからです。しかし、そのおかげか自分にとってこれは好きでこれは苦手であると言った感性は磨かれた気がします。それからというもの閑暇な時間を過ごすため哲学書やそれらに類する本を探し、自分が読みやすいなと感じる本を手に取り自己内対話を日々行なっています。セネカの人生のお説教とも取れる指摘は、現代において中々言ってくれる人はいません。その様な考えをしっかり携えている方は稀であり、自分や他人の人生を大いに否定してしまう強烈な内容が故であると私は思います。

 本書を読む中で私が批判的に感じる部分もありました。それは老人になったからと言って何かを始めることが遅すぎるということでした。確かに若い頃から始めた方が偉大な仕事に結びつくかもしれません。しかし、世の中の、教養があり、かつ能力が高い人の全てが成せるわけではありませんし、老年になったがゆえに見えていることもあるのではないかと考えるからです。サミュエル・ウルマンの「青春とは心の若さ」という水々しい詩の様に身体と心は常に一致しているわけではないからです。

 ただ、いずれも抑えるべきなのは、自分自身に向き合い、過去と向き合い、理にかなった事に目を向けることかもしれません。

 

 

 

 

【読書感想】アルケミスト 夢を旅した少年 パウロ・コエーリョ

 

本書は、1988年にブラジルの人気作家パウロ・コエーリョの「エル・アルケミスタ」として出版されました。原文はポルトガル語であったが1993年に著者とアメリカ人のアラン・クラーク氏が協力して英訳し、日本語訳は1994年に地湧社が単行本として出版、その後角川文庫の一冊として出版されました。今回、私は角川文庫の一冊を読みました。

 

1.あらすじと本書の読み方

羊飼いの少年サンチャゴが「夢」に従って旅に出て、ついには錬金術師の秘密を手に入れるという童話風の物語になっています。ここでいう「夢」は就寝中に見る「夢」のことで、サンチャゴはピラミッドに宝物があるという夢を見たためにそれを確かめるべく行動します。最初は就寝中の夢を確かめるべく冒険する話に過ぎないのですが、徐々に読み進めると様子が変わってくることに読者は気付かされます。読者側からすると、この夢は「人生で追い求めたい夢」であることに気づきます。物語のサンチャゴの夢と、読者の人生の夢という2つを重ねながら物語は展開し、旅の途中に登場するキャラクター達との対話によってサンチャゴは心を強くしながら旅をします。

 

2.旅の途中で出逢う「夢を諦めた大人たち」

少年サンチャゴは目標とする旅の途中で様々な大人たちに出会います。叶えたい夢があるにも関わらず諦めてしまった者、行動すれば叶えることが出来るがあえて行わない者など各人により事情は様々で、少年サンチャゴはその事情に傾聴し、自身に置き換えて思索しながら旅を続けます。その内に夢に向かうだけの気持ち以外の不安や憶測が心に芽生え始めます。

 

3.錬金術師との出会い

少年サンチャゴは、旅の終盤に砂漠で一人の錬金術師に出会います。サンチャゴにとってその錬金術師は全てを知っているように見え、自身の考えていることや疑問などを錬金術師に問います。錬金術師はサンチャゴを導くように回答していきます。ちなみにアルケミスト は錬金術師という意味です。

 

少年「心は僕に旅を続けてほしくないのです」

錬金術師「夢を追求してゆくと、おまえが今までに得たものをすべて失うかもしれないと、心は恐れているのだ」

少年「それならば、なぜ、僕の心に耳を傾けなくてはならないのですか?」

錬金術師「なぜならば、心を黙らせることはできないからだ。たとえおまえが心の言うことを聞かなかった振りをしても、それはおまえの中にいつもいて、おまえが人生や世界をどう考えているか、くり返し言い続けるものだ」

少年「たとえ、僕に反逆したとしても、聞かねばならないのですか?」

錬金術師「反逆とは、思いがけずやって来るものだ。もしおまえが自分の心をよく知っていれば、心はおまえに反逆することはできない。なぜならば、おまえは心の夢と望みを知り、それにどう対処すればいいか、知っているからだ。おまえは自分の心から、決して逃げることはできない。だから、心が言わねばならないことを聞いた方がいい。そうすれば、不意の反逆を恐れずにすむ」」

(『アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫)』(パウロ・コエーリョ, 山川 紘矢, 山川 亜希子 著)より)

錬金術師との対話です。

旅を進める内にサンチャゴは「本当にこの旅は達成できるのか」と疑問を持ち始めます。それに対して賢者である錬金術師は、サンチャゴの不安を正確にとらえます。結論から言うと、この疑念の心の声はちょっとしたアクシデントであり対話の中では「不意の反逆」と呼ばれてます。心の声は、無視したところで何度も繰り返し問いかけてくるので耳を傾けるべきである。しかし、不意の反逆の心の声が稀に聞こえることもあるだろうが、あくまで不意であり本当の心の声はどのような声なのかを聞き逃してはならず、日頃からしっかり自己の心の夢と望みを知れば不意の反逆は起こらないと私は解釈しました。錬金術師は非常に冷静で、心の疑念や不安は、取り除くべきだと言っているわけです。

 

少年「人は、自分の一番大切な夢を追求するのがこわいのです。自分はそれに値しないと感じているか、自分はそれを達成できないと感じているからです。永遠に去ってゆく恋人や、楽しいはずだったのにそうならなかった時のことや、見つかったかもしれないのに永久に砂に埋もれた宝物のことなどを考えただけで、人の心はこわくてたまりません。なぜなら、こうしたことが本当に起こると、非常に傷つくからです」 「僕の心は、傷つくのを恐れています」

錬金術師 「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだと、おまえの心に言ってやるがよい。夢を追求している時は、心は決して傷つかない。それは、追求の一瞬一瞬が神との出会いであり、永遠との出会いだからだ」 「夢を追求する一瞬一瞬が神との出会いだ」と少年は自分の心に言った。」(『アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫)』(パウロ・コエーリョ, 山川 紘矢, 山川 亜希子 著)より)

「自分の一番大切な夢を追求するのがこわい」、私がこの物語で最も印象に残ったセリフでした。子供でも当初は夢を追いかけることに何ら疑念がなかったはずです。しかし周囲との比較や意見によって又は自己への問いかけの中で「自分は夢の達成に値しない」と考えてしまいます。夢を追いかけたばかりに愛する人との過ごすはずだった時間を失うかも知れない、逆に夢を追いかけないが故に探せば達成できなのではないだろうかと永遠に考えるかも知れない。考えるだけで怖く、それは心が傷ついてしまうからだとサンチャゴは錬金術師に伝えます。どちらも誰もが考える人生の怖さではないでしょうか。本書ではっきりと意識するまで私は自身の中で似たような感情があっても抽象化して曖昧な感情へと変えていた気がします。本当に怖いものに対峙することは非常に勇気がいることです。勇気がなければ、避けたり又は無かったものにしておくと言うことにしがちですが、その分サンチャゴは非常に勇気があるなと私は感じました。

 

4.その後の展開、書籍の個人的感想

少年サンチャゴと錬金術師は旅を共にして、結論だけ言うとサンチャゴは夢を達成する形で物語は終結します。以下は個人的な感想です。この本で伝えたかった内容は、最終の夢の達成ではなく、道中の夢を追求する姿勢であると私は考えます。いたずらに「夢を追い続けよ!」という内容ではなく、文中には深い洞察が散見され、夢を追いかける人の繊細な心理が描かれています。読者は自身の心理状態と重ね合わせることで、知り得なかった自己の心理を知ることができるのでないでしょうか。その意味で本書は童話というより自己啓発に傾倒している様に私は感じました。自分の頭ではなく心に訊いてみて一体自分は何を人生で追い求めたいのか。じっくり考えて行動に移すにはうってつけの本であると私は思います。

 

 

今日の芸術

f:id:iwakeen:20220227124242j:plain

 

「芸術は、つねに新しく創造されねばならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギャルド(前衛)です。これにたいして、それを上手にこなして、より容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズム(近代主義)です。  もう少し、突っこんでお話ししましょう。ほんとうの芸術は、時代の要求にマッチした流行の要素をもっていると同時に、じつは流行をつきぬけ、流行の外に出るものです。しかも、それがまた新しい流行をつくっていくわけで、じっさいに流行を根源的に動かしていくのです。  芸術家は、時代とぎりぎりに対決し、火花をちらすのです。  一言でいえば、モダニスト(近代主義者)が時代にあわせて、その時の感覚になぞらえていくのにたいして、ほんとうの芸術家はつねに批判的です。正しい時代精神が現存する惰性的なありかたに反抗し、それをのり越えていくという、反時代的な形で、自分の仕事を押し出していくのです。だれもがそうしなかった時期に、新しいものを創造していくからこそ、アヴァンギャルドなのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

独自に先端的な課題をつくり前進するアヴァンギャルド = 芸術

上手にこなしてより容易な型をつくり時代要求にマッチした流行要素 =モダニズム

また、モダニズムその時代の感覚になぞらえるが、芸術は常に批判的である。

 

 

「最初に抵抗によってつくられたものと、あとで抵抗がなくてつくられたものとは、その中にこもったけはいがどうしてもちがいます。内容がちがうのです。一方は、じっさいに激しさを内に秘めた、純粋の芸術的な発想。たいへんな努力と精神力によって自分自身をうちひらいていった、苦悩によってだけつかみとる何ものかであり、他方は、それを応用してつくった、惰性的な気分でも受けいれられるようになったもの。一方が先駆的役割で、いわば悲劇的なのに、一方は、だれにも安心されるあたらしさなのです。まさにこのほうは、モダニズムです。流行に即したスマートさがあるのです。  モダニズムは、あくまでもここちよく、生活を楽しくさせるものであるかもしれないけれども、ふるいたたせて、生活からあたらしい面をうちだす、猛烈な意志の力をよびおこすものではありません。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

先駆的で悲劇的な芸術に対し、モダニズムはあくまでも心地よいスマートさがある。

 

「以上、私の言いたいことは、こうです。うまいから、きれいだから、ここちよいから、――という今日までの絵画の絶対条件がまったくない作品で、しかも見るものを激しく惹きつけ圧倒しさるとしたら、これこそ芸術のほんとうの凄みであり、おそろしさではないでしょうか。  芸術の力とは、このように無条件なものだということです。これからの芸術は、自覚的に、そうでなければならないのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

うまくてはいけない。きれいであってはいけない。心地よくてはいけない。

 

「描きたいのに描かずにすましてしまう。そのあとに、自分ではっきりと気がつかなくても、なんとなく味気ない気分がのこる。そういうことがつもりつもると、生活自体がひどく消極的で空虚なものになってくるのです。しかも、たいていその空虚さを自分自身で気がつかずにいるものです。  あなたは、展覧会とか劇場などの芸術鑑賞の場で、奇妙にあらたまった、重苦しいけはいを感じとられたことはないでしょうか。見るものと見られるものとの間のよそよそしさ。それはなんとなくあなたの気分を空しくする。 「私も描けたらいいな」と思ったら、描いてみるべきだ、いや、描いてみなければいけない、と私は言いきります。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

 

 

「この「でたらめ」という言葉を、もうすこし突っこんで考えてみなければなりません。たとえば、新しいすぐれた芸術などを見て、「あんなの、でたらめだ」と簡単に口先だけで言います。それから「あんなの、だれにだって描ける」ということをよく言います。たしかに、それはなにもむずかしい秘伝や熟練が要るわけではない。だれにでも描けるにちがいないのですが、精神の自由がなければ、ほんとうは作りえないのです。ですから、真の芸術家の名に値しない絵かきたちは、旧態依然として自然を見えるとおりに描く、つまり自然のまねをしてみたり、外国のすぐれた画家や、新しい流行を追っかけたりして、苦心惨憺ごまかしているのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

「ほんとうの自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものにたよるのではなく、引き出してこなければならないものは、じつは、自分自身の精神そのものなのです。そこが芸術の根本なのですが、そういうもっとも本質的なことになると、とたんにハタと行きづまってしまって、絵が描けなくなるというのはどういうことなのでしょう。 「自由に描いてごらん」「かってに描いてみろ」と言われて、しかもそのほうが、はるかにむずかしくて、描けなくなる。これは、いかに「自由」にたいして自信がないかを示すものです。  このような矛盾した、不自然な心理状態を見すごしてはなりません。これをどんどん追究して芸術、そして自分の生活の問題として、はっきり考えてゆかなければならないのです。  鉛筆と紙さえあれば、どんなバカでも描けるものが、どうして描けないとか描けるとか、ややこしい問題になるのでしょうか。描けないというのは、描けないと思っているからにすぎないのです。うまく描かなければいけないとか、あるいは、きれいでなければ、などという先入観が、たとえ、でたらめを描くときにでも心のすみを垢のようにおおって不自由にしているからです。  うまかったり、まずかったり、きれいだったり、きたなかったりする、ということに対して、絶対にうぬぼれたり、また恥じたりすることはありません。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

 

「あるものが、ありのままに出るということ、まして、それを自分の力で積極的に押しだして表現しているならば、それはけっして恥ずかしいことではないはずです。見栄や世間体で自分をそのままに出すということをはばかり、自分にない、べつな面ばかりを外に見せているという偽善的な習慣こそ、非本質的です。自分をじっさいそうである以上に見たがったり、また見せようとしたり、あるいは逆に、実力以下に感じて卑屈になってみたり、また自己防衛本能から安全なカラの中にはいって身をまもるために、わざと自分を低く見せようとすること(よくある手で、古い日本の社会では賢明な世渡りの術とされてきたのです)、そこから自他ともに堕落する不明朗な雰囲気ができてくるのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

「しかし、私はそういうめんどうくさい決意をすすめているのではないのです。  私の決意というのは、第一には、きわめて簡単なことです。今すぐに、鉛筆と紙を手にすればいいのです。なんでもいいから、まず描いてみる、これだけなのです。要するに、芸術の問題は、うまい絵をではなく、またきれいな絵をでもなく、自分の自由にたいして徹底的な自信をもって、表現すること、せんじつめれば、ただこの〝描くか・描かないか〟だけです。あるいはもっと徹底した言い方をすれば、「自信を持つこと、決意すること」だけなのです。  ぜったいにうまく描けないことはわかりきっています。だが、まえに言ったとおり、下手なほうがいいのです。きたなかったら、なお結構。くりかえして言いますが、けっしてうまく描こうと考えてはなりません。  なぜでしょう。うまいということはかならず「何かにたいして」であり、したがって、それにひっかかることです。すでにお話ししたように、芸術形式に絶対的な基準というものはありません。うまく描くということは、よく考えてみると、基準を求めていることです。かならずなんらかのまねになるのです。だからけっして、芸術の絶対条件である、のびのびとした自由感は生まれてきません。それなら描く意味はないのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

とりあえず「描こう」。うまい絵を描くことが、綺麗な絵を描くことが目的ではない。描くか否か自信を持って決意することのみ。

うまいということは、「何かに対して」であり、それに引っかかろうとする行為である。基準を求めてはいけない。それは必ずモノマネになってしまうからである。

 

 

「自分かってに描いているはずが、いつのまにか知らずしらず人まねみたいになってしまう。そこで、自分には独自なものが出せない、と言って、がっかりする人がいるかもしれません。しかし、今すぐに自由な気分で描けなくても、そんなことでガッカリする必要はないのです。  自由であろうと決心したうえは、たとえ現在、自由に描けなくたって、それでもかまわない、というほどの自由感で、やってみなければなりません。これはひじょうに大事なポイントですから、よく心にとめてください。  自分は自由だ、という自信のある人だったら、どんどん描いてください。もし、自分がまだ自由でない、と考えるのならば、それでもかまわないという気もちで、平気でやってゆくべきなんです。「自由」ということにこだわると、ただちにまた自由でなくなってしまう。これはたいへん人間的な矛盾ですが。  人間というものは、とかく自分の持っていないものに制約されて、自分のあるがままのものをおろそかにし、卑下することによって不自由になるものです。まねごとになってしまうからといって、自己嫌悪をおこし、絵を描くのをやめるというような、弱気なこだわりも捨てさらなければなりません。それならばこのつぎは、似ても似つかぬように下手に描いてやろうというほどの、ふてぶてしい心がまえを持てばよいのです。  いつでも無心に、こだわらずに描いたとしたら、そこに自由感があらわされてくるにちがいありません。  まずいと思いながら、フッと気がついてみると、今までの自分の知らなかった、なにかひじょうに透明な気分が、そこに定着されているのに気がつくことがあります。これが、芸術の出発点です。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

 

「ここでもう一つ考えねばならないこと、それは、子どもの絵と、すぐれた芸術家の作品との根本的なちがいについてです。  子どもの絵は、たしかにのびのびしているし、いきいきした自由感があります。それは大きな魅力だし、無邪気さにすごみさえ感じることがあります。しかし、よく考えてみてください。その魅力は、われわれの全生活、全存在をゆさぶり動かさない。――なぜだろうか。  子どもの自由は、このように戦いをへて、苦しみ、傷つき、その結果、獲得した自由ではないからです。当然無自覚であり、さらにそれは許された自由、許されているあいだだけの自由です。だから、力はない。ほほえましく、楽しくても、無内容です。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

「すぐれた芸術家の作品の中にある爆発する自由感は、芸術家が心身の全エネルギーをもって社会と対決し、戦いによって獲得する。ますます強固におしはだかり、はばんでくる障害をのりこえて、うちひらく自由感です。抵抗が強ければ強いほど、はげしくいどみ、耐え、そのような人間的内容が、おそろしいまでのセンセーション(感動)となって内蔵されているのです。  すぐれた芸術にふれるとき、魂を根底からひっくりかえすような、強烈な、あの根元的驚異。その瞬間から世界が一変してしまうような圧倒的な力はそこからきているのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

 

「日本からだれかすぐれた文化人・芸術家が出なければならないという結論をくだします。「だれかが」なのであって、けっして「自分が――」ではないのです。そんなことを言うものは、謙譲の美徳の国のなかでは一人もいません。文化国家は美名です。しかしおたがいに責任をなすり合い、自分はのがれようとしている。そのために瞬間瞬間に、責任のありかが不明になっています。 「お互いに」とか、「みんなでやろう」とは、言わないことにしなければいけません。「だれかが」ではなく「自分が」であり、また「いまはダメだけれども、いつかきっとそうなる」「徐徐に」という、一見誠実そうなのも、ゴマカシです。この瞬間に徹底する。「自分が、現在、すでにそうである」と言わなければならないのです。現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものならばかならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

 

「公言は公約です。「おれこそ芸術家である」と宣言した以上、すべてそれ以後のわざわいは、おのれだけに降りかかってくるのです。だまっていれば無事にすんだものを。しかし、ノッピキならない立場に、自分を追いこまなければいけない。言ったばかりに徹底的に、残酷なまでに責任をとらなければなりません。言ったことが大きければ大きいほどそうなんです。  もし責任がとれなかったら、たいへんなアホウ、笑われ者になり、たちまち社会的信用を失ってしまいます。「世間はみんないいかげんなんだから、まあこのくらいで」などと調子をおろしたりすることはもちろん、人に同情を求めたり、よりかかったりすることはコンリンザイできません。あくまでも自分の言葉にたいして百パーセント責任を負わなければならないのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

 

「おのれ自身にたいしては逆に残酷に批判的で、つまり謙虚でなければならないのです。日本ではどうもこれをとり違えて、謙虚というのは他人にたいしての身だしなみくらいに思っている。だから、「いいえ、私なんか、とても……」などと言って安心させておいて、けっこう腹の中ではうぬぼれているか、でなければ、とことんまで卑屈になりさがっているかです。  自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きなものに賭けることになるのです。だから猛烈に自分を強くし、鋭くし、責任をとって問題を進めてゆくべきです。ただ自分を無にしてヘイヘイするという謙譲の美徳は、いまお話ししたように、すでに美徳ではないし、今日では通用しない卑劣な根性です。すでに無効になった封建時代の道徳意識の型が陰気に根づよくのこっているのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)

 

ハマトンの知的生活のすすめ

1.知的生活とは何か。

約150年前にイギリス著述家として活躍したフィリップ・ギルバート・ハマトンの知的生活のすすめについて僕が気になった部分を抜粋した。幼少期に自身も画家を志していたハマトンはその後、美術誌の編集者として活躍した。数多くのアーティストが如何に傑作を生み出したのかを間近で見ていたからこそ、その慧眼を持って書き記した「知的生活」。現代においても役立つ部分が多くあると僕は感じた。

 

そもそも知的生活とは、本書にそのような記述はないが、随筆や文学、芸術などありとあらゆる人間らしい活動における知性あふれる時間を過ごす事を指すと僕は思う。また、人生の中で人間として生きていると実感できるのは知的生活にどれだけ時間を投下できたが大きく左右するのではないかと僕は思う。しかし知的生活は、日々の時間において非常に取ることが困難だ。何故なら、毎日の仕事や、雑事、他人に奪われる時間など、24時間の内に取れる時間は限られている。ハマトンは、知的生活の重要性と、どの様にして時間を取るべきなのか具体的に教えてくれる。この記事では本書でハマトンが取り扱った中でも特に「時間」に関わる内容について掘り下げる。

 

f:id:iwakeen:20220211070244p:plain

 

2.時間の節約の最善の方法

「知的生活者が時間節約をする最善の方法は、何かを勉強するときには、それを必ずものにするという強い決意をもって臨むことである。しかし、もしその勉強が自分にはどうにも手に負えないものであると判断したときには、潔く自分の限界を認め諦めることだ。その判断を誤って自分にはできないことを、いつまでも追いかけることは人生最大の時間の無駄である。」(『ハマトンの知的生活のすすめ』)

最大の時間節約術は、時間の無駄に値するものに時間を費やさないことだ。言われてみれば当たり前のことだが、何かを実践している人間からすると耳が痛い。諦めなければ大丈夫というのは、僕はかなり危うい考え方であると思う。自分の相性の悪いことを無理やり覚えたり習得しようと試みる事はもちろん無駄ではない。しかし、それは当人にとってメモリの無駄遣いを意味していて、到底ものにできる様にはならない。つまり、内省の無さがこの様な状態を生むとも言える。まずは自分にそれが「本当に合っているのか」「本当に手に負えるのか」を立ち止まって考える必要がある。

 

3.自分の限界を明確にし、他は排除する

「自分の限界を明確にする」。自分がものにできそうな勉強以外はすべて断念し、時間と決意の両面で自分がものにできそうだと思う対象に集中して勉強すれば、時間節約もでき大いに効率もあがる。しかし、それ以上に大切なことは、今後集中して勉強していくことについて、今後その勉強をどの程度まで進めていくべきかという明確な限界を設定することである。」(『ハマトンの知的生活のすすめ』)

巷の自己啓発本などで「自分の限界は自分で作っているだけだ」というキャッチフレーズをよく目にする。だがハマトンは、そういう思考には反対の様だ。自分にものにできそうでなければやらないという思考である。例えば根暗な人が芸人の様に明るく人を笑わせようとするのには無理があるし、どう考えても無理があるというのは、つまりその人の限界である。限界を知ることが悪いことの様に捉えられる世の中は大変窮屈であると僕は思う。自分に合うことは他人に聞いても答えは出ない。自分に何度も問いかけて、孤独の中で方向性を見出すしかない。

 

4.勉強の範囲を絞れ

「勉強の範囲を絞れ。 たとえば、植物の勉強をするにしても、世界中に無数にある植物の標本を作ろうとするよりも、自分が住んでいる谷の植物標本を作るというように、より狭い範囲の中で明確な限界を設定するほうが、よほど入念かつ神経の行き届いた価値ある仕事ができるだろう。」(『ハマトンの知的生活のすすめ』)

自分の知的生活に関する方向性をある程度決めたのであれば、次にすることはさらに範囲を絞ることだ。なぜそんなに絞る必要があるのだろうか。ハマトンは引用の様に範囲が狭い内容を深く考察する方が「価値が高い」という。しかし僕は別の考えを持っている。範囲を絞るのは毎日時間を充てる箇所を絞ることでその純度を高めることが期待できるからだ。最初にも書いたが、24時間で知的生活に費やせる時間はごく僅かだ。小説であれば3ページ書くだけとか、絵であれば少しの影を描くだけなど少量しか進める時間しかないだろう。そもそも無数にあるものに時間を費やせるほどの時間がないというのが僕の考えだ。

 

5. 10年がかりでの時間の計算ミスをするな

「時間の見通しを誤る単純な理由 不思議なことだが、10分や10時間でやれるようなことなら非常に正確に時間を計算できる人が、10年がかりでやるべきことについては愚かなほどの計算間違いをしてしまう。 では、なぜそんな計算間違いをしてしまうのだろうか。それは、毎日の食事時間や睡眠時間などを削って頑張れば、今後10年間でこれまでの10年間よりもはるかに多くのことができると考えてしまうためだ。 つまり、食事時間や睡眠時間などには伸縮性があり、自分の心がけ次第でいくらでも縮めることができると安易に考えてしまうのだ。ところが、実際にはこうした時間の伸縮性には限度があり、節約できる時間は思ったほど多くはないのである。」(『ハマトンの知的生活のすすめ』)

本書の中で僕にとって最も参考になったのが、この一節だ。10分、10時間なら正確に見積もることができるが10年の計画になった途端に、時間を見誤るミスに発展する。それをハマトンは日常の時間(睡眠、食事時間)を伸縮して計画することがミスの原因だという。非常に切れ味のある一節であると僕は感じた。このミスを回避するには、24時間の内にどれだけ正確に知的生活の時間を確保できるのかどうか、そしてその時間に具体的に何をするか、どのくらいの速度で進めるのか定量的に計測しながら1週間、1ヶ月、半年、1年という時間の経過と成果を計画できるかが必要になると僕は考える。さらに、ハマトンは時間の伸縮性について下記の様に述べている。

「時間の伸縮性には限界がある 時間には自分の心がけ次第で、ある程度延ばしたり短縮したりできるという伸縮性がある。しかし、こうした時間の伸縮性というのはゴムのように際限なく伸び縮みできるような伸縮性ではなく、むしろ皮のようなはっきりとした限界がある伸縮性だと思ったほうがいい。 本当にうまく時間節約のできる人とは、時間の伸縮性をよく理解している人のことだ。時間の伸縮性を理解すれば、何時間でどんなことができるかを正しく判断できるだけでなく、何年でどのぐらいのことができるかということについても幻想を抱くようなことはない。」(『ハマトンの知的生活のすすめ』)

時間節約ができる人間は、時間の伸縮性の限界を理解しているかどうかである。時間の計画は近い未来を予測するに等しいと僕は考える。是非、内省のタイミングで自分の人生をどの様に計画するのか、時間の伸縮性を考慮して実践したい。

 

6.何をやらないかを決める

「何をやるかより何をやらないかを決める 人生は短く、時間は矢のように過ぎ去っていくものであることは誰でも知っている。しかし、そうした時間の制約の中で何をやり、何をやらないかを正確に判断することは、豊富な人生経験とすぐれた知恵がないとできない。人生においては、何をやるかということよりも、何をやらないかを決めることのほうがはるかに重要なのである。」(『ハマトンの知的生活のすすめ』)

この件に関しては、ジョブズの発言や著名人がよく口にする内容と重複する。僕としては、何をやらないかを決めるというのは「やらないことを捨てる」と置き換えて考えている。決めるというのは、意外と難しい。なぜなら精神的な変化であり物理的に見えないために本当に自分の中でやらないと決まったかどうかが分からないからである。だから僕は物理的にも可能な捨てるに置き換えた。実際に身の回りにあるものをたくさん捨ててみた。例えばテレビだ。テレビを見ないと決める、ではなく、見ないためにテレビを捨ててしまう。そうすると結果的にやらなくなるからだ。こうして精神的に「やらないを決める」を物理的に「捨てる」ことで時間の節約を行なった。

 

7.一番快適な時間帯に知的生活を行う

「一番快適な時間帯に一番大切な仕事をする 時間という問題は知的人間にとって最も大きな関心事の一つだ。なかでも一番重要なのは、一日のうちどの時間に一番注力する仕事をやるかということである。 それは昼であっても夜であってもかまわない。重要なことは、自分にとって一番快適だと感じる時間にその仕事をすることだ。」(『ハマトンの知的生活のすすめ』)

最後に、知的生活をいつするかについての一節だ。朝晩などの時間帯であるのか、それとも人と接しないタイミングなのかは人による。24時間の内に一番行いやすいタイミングを色々と試してみてカチリと嵌った時を知的生活に費やす。

 

2000年前のローマ哲人であるセネカは、著書「人生の短さについて」で如何に人生の中で、自分のために自由に使える時間(知的生活)が短いものであるかを説いた。第二次世界大戦でナチズムによって亡命をせざるを得なかったユダヤ人の哲学者ハンナ・アレントも同様の時間を「観照生活」と呼んだ。各時代で一体自分に対する時間を何に費やすべきかという問題は常に扱われてきた。賢者と呼ばれる方の声を本を通して、僕も自分の中に取り入れていきたい。

 

 

ハマトンの知的生活のすすめ

ハマトンの知的生活のすすめ

Amazon

 

 

自分は、前に進んでいるから大丈夫と、安心してはいけない。

こんにちは。イワケーンです。

「慢心」ということを考えた記事です。

・やりたいことが出来ている

・日々、進んでいることを実感できている

・自分に自信がある

 という方には何か参考になるかもしれません。慢心の備忘録。

 

目次はこちら!!

 
 

f:id:iwakeen:20201026074411j:plain

1.「成長感は心の安定剤だが危うい」

前回の記事が、自信のない方へ書いた内容でした。そのため今回は逆に、自信がある方へ書いた内容です。というか自戒という意味もこめています。

 ↓前回の記事

iwakeen.hatenablog.com

 

 
僕の場合、何かにつけて手あたり次第にやってみて、やっぱり違うなと思ったら手放して、また別のことをやってみてとトライアンドエラーを繰り返す毎日です。ほぼ方向が定まりました。ちなみに、仕事とは別にです。やはり新しいことをやってみると、新しい知見や感情を得られる訳です。これが中々刺激的で、このブログではその過程で得られた何かを捻出して投稿しています。
 
そうすると、日々生み出しているモノ(この場合は記事)があるので、なんとなく精神的に安定はするんですよ。電車が途中で止まると気持ち悪くなる感じと似てて進むはずなのに進んでないと気持ち悪くて進み出すとほっとするみたいな。とりあえず、少しだけでも前に進んでいるなぁという感じです。
 
仮にこれを成長感と呼ぶと、成長感は精神安定剤みたいなもので、憂鬱になる気持ちに対しては効果抜群です。家からでなかった時間がながかったので、これは非常にたすかった。
 
しかし、一方で危ういな、とも感じました。何が危ういかというと、「そのスピードでゴールまでたどり着けるかどうか」を忘れてしまうからです。例えば、今から毎日バットの素振りを100回し続けたところで5年後に野球選手にはなれません。ただ、運動で、趣味でしているだけなら問題はありませんが、ゴールを野球選手に設定するのであれば、素振りだけではダメですし、高校野球で目立つのか、社会人チームで目立つのか、ある程度ゴールから逆算して、そこに行くまでの成長スピードを変える必要があります。そのため、毎日ちょっとずつ進んで成長感を味わえているから安心だ、というのは要注意な訳です。
 
もし、前の記事で書いた様に何か情熱を注げることが見つかったなら、次は目標と、そのゴールテープをどこに設置するか決めなければいけません。ただ、目標も一つにするのではなく、細分化してできるだけ多くして、達成しやすい方がいい。総理大臣になりたいって思って、一般人が選挙にでてもすぐにはなれません。菅さんくらいのポジションまで上り詰める必要がありますよね。小さなゴールテープをたくさん設定して、そのテープを切るためのスピードを意識して走らなければなりません。
 

2.「小さなゴールを意識する」

周りと比べて、自分は走っているので、違うことをしているので、意識のベクトルが違うので、と安心してはいけません。いまの環境から脱出するための言い訳に成り下がっていないのか?年単位、月単位、日単位、1時間単位、秒単位でゴールを意識して動けるといいですよね。
 
頑張りましょう、と自分を応援してみました(笑)

 

何がやりたいか分からない人へ。

こんにちは。イワケーンです。

「情熱の向け方」ということを考えた記事です。

・やりたいことがわからない

・将来が不安である

・自分に自信がない

 という方には何か参考になるかもしれません。ある人へのメッセージ。

 

目次はこちら!!

 

f:id:iwakeen:20201021192742j:plain1.「自分は弱い人間と認めろ」

何をしたらいいのかわからない、全然わからない。これではダメだということはわかっているんだけど。自信もないし、これだけは貫きたいという情熱もない。生活的には、まぁ程々なものは持っているし。だらしがなく、私はダメ人間、不安で、迷って、自信がなく、何をしたらいいのかわからないあなたに提案する。
 
自分はそういう人間だ。ダメなんだ、と平気で、ストレートに認めること。そんな気の弱いことでどうする!とクヨクヨしても、気は強くならない。だから、むしろ自分は気が弱いんだと思って、強くなろうとジタバタしない方がいい。諦めるんではなく、気が弱いんだと思ってしまうんだ。そうすれば何かしら自分なりに積極的になれるものが出てくるかもしれない。つまらないものでも、自分が情熱を賭けて打ち込めば、それが生き甲斐だ。
 
他人から見ればとるに足らないようなバカバカしいものでも、自分だけシコシコと無条件にやりたくなるもの、情熱を傾けるものが見いだせれば、きっと眼が輝いてくる。
 
これは自己発見だ。生きていて良かったと思うはずだ。何か、これだ!と思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりではなく、自分の目を気にしないでありのままにやればいい。
 

2.「何をすればいいか分からない。それが普通」

何をすればいいのかわからない、というかもしれない。だが、それがごく普通のことなのだ。誰もが何かをしなきゃいけないと思っている。しかし、それが何なのか考えてみてもてんでわかりはしない。多くの人がそうだ。隣の人が先に行ってしまい、焦ることもあるだろう。
 
では、どうしたら良いか。人に相談したってしょうがない。答えなんて出ない。まず、何でもいいからちょっとでも情熱を感じたら、惹かれそうになったものがあったら、無条件にやってみる。今週の休みにやろうとか、今やっていることが終わったらやろうとか条件をつけないこと、無条件とはそういう意味だ。
 
何かすごい決定的なことをしようなんて思わないこと。力まずに、ちっぽけなことでもいいから、心の向くままにまっすぐにやってみる。3日坊主でも構わない。とりあえずやってみる。
 
何を試みてみても、現実ではおそらく、うまく行かないことの方が多いだろう。でも、失敗をしたら面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。とにかく無条件に生きるということを前提にして、生きてみよう。
 

3.「成功とは何なのか」

それが夢になって、賭けてみようと思えば儲け物だ。ただ、夢に賭けても成功しないかもしれない。ああ、あの時、両親のいうことを聞いておけば良かったと悔やむ時があるかもしれない。でも失敗したっていいじゃないか。不成功を恐れてはいけない。人間の大部分の人々が、成功しないのが普通なんだ。99%以上が成功しないだろう。
 
しかし、挑戦した上での不成功者と、挑戦を避けたままの不成功者とでは全く、天と地の隔たりがある。挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままで降りてしまった奴には新しい人生などはない。ただただ成り行きに任せて虚しい生涯を送るに違いないだろう。
 
それに、人間にとって、成功とは一体なんだろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯、挑戦した。それで爽やかだ。
 
 
岡本太郎著「自分の中に毒を持て」より

「世界遺産を作る」という考え方

こんにちは。イワケーンです。

「モノの寿命」ということを考えた記事です。

・スクラップアンドビルドに嫌悪感がある

・どうすれば長い間愛されるものをつくれるのか分からない

 という方には何か参考になるかもしれません。備忘録。

 

目次はこちら!!

 

f:id:iwakeen:20201020124257j:plain

1.「祝!投稿100記事目」

この記事で投稿100記事目です。大体2000〜3000字の記事を書いてきました。当初はネタをひねり出すのに苦労しました。しかし、最近ではこのブログの蓄積もあってか思索することが楽しく、どこにいても暇をしません(笑)おめでたいやつです。

 2.「そうだ、世界遺産を作ろう」

そんな中、今日はかなり突拍子もない考え方を題材に記事を書くことにします。何かと言うと「世界遺産を作ろう」という考えです。ん?(笑)100記事書いてもおめでたい頭である事は変わらなさそう笑。なぜそんなことを考えたかと言うと、「これ最高だから、みんなで後世に残そうぜ!」という考え方が非常に良いと思ったからです。これでもまだ分かりづらい。。。実はある出来事がきっかけでした。

3.「止まらないスクラップアンドビルド」 

就職して間も無く、仕事の近況報告を兼ねて同期と飲んでいた時です。電気科出身の友達と話していると「建築はいいよね。電気製品とかって製品開発のサイクルが早くて、すぐに型落ちになってしまう。その点建築はサイクルが遅いから、何というかやり甲斐がありそうだね。」と言われました。考えたことが無かったので、「まあ、確かにサイクルは遅いね。」と回答しました。しかし回答しておいて「実はそうでもない。」と思っていました。建築も大半はスクラップアンドビルドを繰り返します。

 

確かに建築物ができてから、長年経ち続けているものもあるけど、大半は100年以内、もっと早いものだと10年くらいで壊されたりもする。建物が悪くなったり運営が行き詰まったり、買収されたりと理由は様々です。

4.「持続可能な」ではなく「持続させたい」と人に思わせる

建築もそうだが、モノが出来るだけ長い間あり続けるにはどうしたらいいのでしょうか。昨今ではサスティナブル、持続可能をコンセプトにプロダクト開発は進んでいます。僕はここにも疑問があります。最近はこの言葉を使えば世の中に対して良いよねという風潮があって、乱用されがち。当初の真意は廃れつつある様に感じます。

 

「持続可能な」という言葉だけが先行して忘れがちでしたが、実際に必要なのは人々に「持続させたい」と思わせ続ける建物、ないしモノであることが重要であると思います。出来上がるまでの文脈も含めて「これは後世に残してその意思を伝えよう」と思ってもらえば、なんとかスクラップにならずにすむし、単純に次の世代のためにも「なぜ出来たのか」を伝えられますから時代を好転させるには良い動きなはずです。

 5.「持続させたいと思わせる塊、すなわち世界遺産」

ふむふむ、世の中に遺したいっていう運動かぁ。そんなことを考えていたら「あれ、それって世界遺産では!?」と思いつきました。良し悪しに関わらず出来事の文脈を踏まえて、「これは忘れずに後世に伝えよう!」世界遺産には当時の方々の感情が埋め込まれていて、ざっくりいうと「世界の思い出」みないなもんです。以前の記事で「人は過去(思い出)は捨てないし、写真などの過去へもどれるスイッチがあればその時の感情を思い出す」と書きました。そう考えると、世界遺産=世界の過去に戻れるスイッチ、と考えられます。

 ↓以前の記事(思い出は捨てない、が結論)

iwakeen.hatenablog.com

 

 6.「世界遺産を作る前提のモノづくり設計」

つまり、なにが言いたいかというと、「世界遺産を作る」という前提でモノをつくれば、人は思い出が関わるモノを捨てずに残そうとするし、この世からなくなりにくい。また過去に戻れるスイッチとして、当時の思いとか哲学を後世に伝えられるのではないか、と考えたわけです。多分世界遺産も同様な考えから生まれたのではないでしょうか。存在するモノはいずれ朽ち果てる、ですが、それが世の中にとって良いものなら必衰の理にあらがっても良いのではないでしょうか。だから、その、世界遺産つくりましょう(笑)
 
コロナ禍で、自粛時間があったお陰で色んなことを思索できました。過去何記事かについても、この内容に辿り着く過程であった気がします。好奇心という言葉は型がある様で好きではありませんが、「何で?」と思いつき、自論をたてて、思索し、考えが枯渇したら人に聞いたり、本を読んだりする。かなり楽しい感じになってきました。ということで100記事目に世界遺産を、つくることを表明したファンキーな記事でした(笑)ファンキーな記事をここまで読んでくださって誠にありがとうございます。とりあえずここまで読んだということで、あなたもファンキーです(笑)

スーパーリアリズム上田薫展

こんにちは。イワケーンです。

「リアルなモノ」ということを考えた記事です。

・上田薫さんの作品をみてみたい

・どうすごいのかわからない

 という方には何か参考になるかもしれません。リアルに対する備忘録。

 

目次はこちら!!

 

1.写実的な絵と出会う

先日、横須賀の海辺にある美術館へ展覧会へ行ってきた。目的は上田薫展という画家の展覧会だ。写実的な絵を描かれることで有名な方で、是非見に行こうと妻と話して見に行くことになった。

実はその2週間前に千葉県のホキ美術館にいっており、そこでも写実主義の絵を見たあとだった。そこで感動したので、他にもやっていないか探してみた訳だ。

上田薫さんは現在も活動中の画家で写実的な絵を描かれる。作品サイズは巨大なものが多く、自分の食べているものや、手にしている物がこんなに美しいのかと再認識させられる程だ。

 

2.スーパーリアリズム

面白いのは単なるリアリズムではなく、スーパーリアリズムという点にある。例えば、有名な「なま卵B」。一見すると、本物の様だと驚くべき写実主義の絵であるが、実はそうではない。

f:id:iwakeen:20201013123946j:plain

なま卵B

よく見ると卵を割っている筈の手は描かれていない。しかし、描いてあるのはまさしくフライパンの上で割る瞬間だ。おかしいことに気付く。その手で割る瞬間があるから、この絵の構図がある筈なのに手が描かれていないのなら、この現象は起きないからだ。つまり、上田薫さんはある瞬間から手を除いた後を想像して描いているのだ。

 

ここにスーパーリアリズムの本質がある。「フライパンの上で、手で生卵を割る瞬間」ではなく「生卵を割る瞬間」という極限までに一点に集中させた一瞬をとらえている。割る瞬間に「手は邪魔でしかない」のだ。これは簡単に「リアルを描こうとしてリアルが描けていない」という矛盾ではなく、リアルを超越したからこそ生まれるスーパーリアルである。現に、上田薫さんの解説なしには手が無いことに気が付かなかった(笑)シンプルに「割る瞬間」を楽しめたとも言える。

 

他の絵にも似たようなことが言える。サラダを見たときもそうだ。本物の様だと思いながらも、上田薫さんが実際に描かれるメイキングを見るとサラダより絵のサラダのほうがみずみずしい。本人も「どうすればシャキシャキという食感を見ていて感じられるか、水水しくかけるか考えながら描いています」と話す。

f:id:iwakeen:20201013124043j:plain

サラダB

3.正しくなくてもいい

要するに、どう見せたいかということを中心にして描くためスーパーリアルになるわけだ。本来、そのままを描くことが正しい写実の観点からすると多分正しくない。しかし、そんなこと構わないでしよ?と絵が言っている様だった。面白い発見だ。


この発見は、僕の中でとても力になった。正しく描いたり、作ったりするばかりが正解という訳ではないと心底理解できたからだ。


正しいことがスマホから瞬間的に取り出せる世の中は結構息が詰まる。そんな中で肩の力を抜くことのできる、そんな発見だった。

 

とても素晴らしい展覧会なので、是非行ってみてほしい。海軍カレーまた食べたい。余談ですが、横須賀美術館は冬期16-17時に来館すると日が落ちるタイミングで館内が青くなるんだとか。それが神秘的らしい。学芸員の方が仰っていました。

なぜインスタントカメラが再燃しているのか。

こんにちは。イワケーンです。

「思い出って何だっけ」ということを考えた記事です。

・便利すぎる世の中に違和感がある

・何が大事だったか忘れている気がする

 と悩む方には何か参考になるかもしれません。思い出に対する備忘録。

f:id:iwakeen:20201010110817j:plain

目次はこちら!!

 

 1.なんか若者の間でインスタントカメラが再燃しているらしい

テレビかニュースで見たんですけどびっくりした。おじいちゃんやおばあちゃんはともかく、若い子たちの間でまさかの「写ルンです」が再燃しているらしい。最後に使ったのは中学生の頃なので15〜18年前くらいだ。スマホに高性能なカメラが搭載されている時代になかなか斬新な出来事と感じた。

 

2.チェキではなく、インスタントカメラ?

その場で撮影から印刷までできる「チェキ」も流行っている。これに関しては、スマホと違い撮影と同時に印刷できてかつノスタルジックに仕上がるという点で持ちたいという方がいるのは理解できる。だけど、インスタントカメラはそのどちらもできない。スマホのような高画質でもなければ、すぐに印刷できるわけでも、ノスタルジックにできるわけでもない。何なら思い通りの写真を撮れたかも現場で確認できないし、シャッター回数も25回くらい。一体何故?

 

3.不便なところが「良い」

何じゃそら。聞いてびっくりした。ニュースのインタビューで若い子達が話す。「偶然というか限られたシャッター回数の中でどんな写真が撮れているか分からないところがワクワクするし、変な写真が撮れていたら笑えるので」。そういわれると理解できた。確かに友達ととって目を瞑っていたり、フラッシュが眩しすぎて顔が真っ白になってる写真に大笑いしたことがあった。

 

4.きれいに仕上げられたものが良いわけではない

技術の進歩に従って、何となく「きれいに仕上がっている方が良い」ということが「正しい」よね、とモノに対しての尺度をとっていた気がすることに気がついた。誰がとってもきれいに映るプリクラみたいに、誰が撮影してもきれいにとれるカメラやアプリが登場して、それこそが正義である条件みたいになっていた。しかし、このインスタントカメラでいうと、カメラの性能は鼻くそ(すいません)なので、2mくらいのみしか焦点が合わず基本汚く撮影される。なので、美しく撮るも、面白く撮るも、全てはカメラを持つ人の腕次第になっている。だけど、そんな凝り固まった感じでなくても「偶然」を生むモノとして最高のお供であるわけだ。

 

5.思い出を作るツール

もう一つ、これはチェキも含むが、結局のところ「思い出を物理的に残す装置」であるから売れているのではないかと思う。どういうことか??インスタントカメラとスマホの最大の違いは「写真を物理的に出すかどうか」だと思う。もちろんスマホの写真も印刷することはできるが、クラウドやフォルダの中に入れているものが大半でわざわざ印刷する頻度はかなり低い。それに比べてインスタントカメラは、現像しないと写真が見れない(笑)そして、印刷した写真はアルバムという形で物理的に残すことが多い(僕の場合)。結果的に写真は、かさ張らないデータと、がっつりかさ張るアルバムに分かれるわけだ。人によって個人差があると思うが僕の場合、アルバムを開いている時の方が思い出に深く浸れる気がしている(深度計測不能です)。笑ったり、悲しんだり、思い出に浸れるスイッチを作るのには、インスタントカメラの方が都合が良いのかもしれない。

 

6.過去だけは変えられない、だから大事にできる

先日、記憶喪失の方がテレビ出演していて、何とか自分が誰なのかを知ろうとしている様子を見た。正直、過去なんかどうでもよくて、現在というか、これから未来をどう生きるかが大事でしょ。なんて思って見ていた。後で考えるととても恥ずべき考えだった。「生きてきた=過去を作ってきた」訳で、それが軸になって初めてこれからを生きられるよなぁとしみじみ思う。現在も未来も誰かの影響で変えられるかもしれない。しかし、過去は誰の影響も受ける事はない。自分の過去を大事にして、切り撮り方によって面白がったり喜んだりして楽しく生きたいなぁと思った。

 

7.思い出は「捨てない」

なんかスピリチュアル感があることを言ってしまったと、周りから笑われそうな気がする。今回のことは前回の「価値を下げない、守るにはどうするか」という記事から考えた末に思いついたもの。全ての商品において「人間って思い出は捨てない」ということを前提に設計すれば手放さないのではないかと思った。

 

iwakeen.hatenablog.com

 

 

8.最後に

感覚でインスタントカメラって良いよねって気づける10代の人ってすごいなぁっと思っていたら、蜷川実花さんがインスタントカメラだけで撮影した写真展を開催してた。やっぱすごいな。感覚が若いまま。若者とか言っちゃうことに違和感バリバリのイワケーンでした。

価値の下がり方、価値の守り方

こんにちは。イワケーンです。

「価値の下げ方と守り方」ということを考えた記事です。

・物が売れない時代になった。

・価値がどんどん下がり続ける。

・どうやって価値を守ればいいか分からない。

 と悩む方には何か参考になるかもしれません。価値に対する備忘録。

※今回はアパレルを題材にしていますが、本記事内容はどの業界にも今後起きることであると推察します。

f:id:iwakeen:20200811222007j:plain

目次はこちら!!

 

1.「誰がアパレルを殺すのか」その答えは?

最近、服が売れなくなったという声が耳に入ってくる。また、その頻度が増した。以前、書籍「誰がアパレルを殺すのか」でアパレルに関する記事を認めた。その答えは「業界がアパレルを殺した」という結論であった。1970年代頃の業界不振が原因でありそれが現在に繋がっていると、アパレルの歴史を紐解きながら導いた答えにはそれなりの説得力があった。しかし、売れなくなった要因に、どういった価値の下がり方が構図としてあったのかはあまり触れられていなかった。今日はそこを考えたい。

▼以前の記事

iwakeen.hatenablog.com

 

2.「価値が下がった原因 」

最初に結論を言うと、近年で急激にアパレルの価値が下がった原因 は「ユニクロとメルカリ」にあると思う。大多数の人が聞いて、何となくそう思うと理解いただけるかもしれない。ただ、何となくだけなので少し深掘りしたい。この2社を「どういう会社?」と聞かれたら、僕は、ユニクロは「ある程度トレンドを押さえて、無難な服を中間層に売る企業」、メルカリは「価値を客が再定義できる、市場ではなく個人が軸となって価値を決定できるサービスを展開する企業」と答える。なぜ2社の名前をあげているのかも順次説明したい。

 

3.「ユニクロが体質を作った」

まずはユニクロから。先ほどの通り「ある程度トレンドを押さえて、無難な服を中間層に売る企業」と若干揶揄した。しかし、ユニーククロージング(独特な服)でユニクロと言っている割にやっていることは逆なのだから、言い得て妙なところがある。利益を拡大するために、散弾銃商法ではなく「おしゃれしたいけど、そこまでお金をかけたくない。だって2〜3年でトレンドが変わるでしょ」という大多数の声に気づき、パイを占める中間層に大砲を撃ったわけだ。その砲弾は見事に的中し、さらに客から「そんな高い服でなくてもユニクロでよくない?」と言われるようになったのだから他のブランドはぐうの音も出ない。デザイナーを軽視してデザイナーの意義を育成しなかった日本では、「ユニクロでよくない?」と何とも言えない「間に合わせている感」を着ることになり、2〜3年後にくるトレンドの変化のために節約する体質が確固たるものとなったわけだ。

 

これまでの高価なアパレルは早い話が「あのデザイナー、ブランドが作った」というレッテルや、「あの人は新しいデザインを着ている、私は古いデザイン」というルサンチマンを生み続け、そこに高価な値をつけて維持していたところが見受けられる。原点的な言い方であるが服の最大の機能は「裸であることを避け身体を守る」だ。肌に良い、着やすいという快適性に多少の差異はあっても、客はレッテルやルサンチマンを着る必要はない、と肌で感じ始めたのではないだろうか。その体感はユニクロによって明確になり、2,000〜3,000円程度を支払えばそれなりの服は揃うと、アパレルは身に纏う単なる「布」に収束するようになったと思う。

 

4.「メルカリが更に拍車をかける」

この状態でも厳しいのに、メルカリは更に拍車をかける。メルカリは先の通り「価値を客が再定義できる、市場ではなく個人が軸となって価値を決定できるサービスを展開する企業」だ。持っている服が30,000円だろうが、3,000円だろうが、その人にとって不要であれば何と300円で取引できてしまう。驚異的なサービスが生まれてしまった。古着屋ですら市場価格を調査して売買金額を決定するというのに、個人を軸に、例えば断捨離を目的にすると一切調べずに300円(メルカリ最低取引額)とする自体が起きるのだ。

 

5.「ユニクロとメルカリのスパイラル」

更に驚くのが、メルカリで一番取引されている商品が「ユニクロ」であるということなのだ。この2社を取り上げたことに合点がいくと思う。中間層向けの低価格でトレンドを押さえた服の販売サイクルは早い。そのため、少し時期をずらしてしまうと正規店では「もう買えない服」が生み出され、それを「メルカリで300円」で買うと言った状態に陥るわけだ。このスパイラルに客が陥ると、抜け出せず、高価な服には触れることもない。取引が行われる程、価格は下がり、価値が下がり続けるのだ。

 

ただ、ここでユニクロとメルカリを悪者にしたいわけではない。2社とも販売に関するシステムを作っただけであるからだ。2ちゃんねるで知り合った若者同士が問題を起こしても創設者であるひろゆきさんを責めるのはあまりにも筋が違いすぎる。それと似ていてシステムを構築した人や企業はそんなこと考えていなかったし、できればそんな状況にはなってほしくないはずだ。

 

6.「価値の守り方」

では、どうすれば価値を下げないで済むのか。価値を守ることができるのか。その答えは「手放さない人に買ってもらう」ではないかと思う。これだけ聞くと当たり前のように思える。一つ例え話を作った。

 

Aさんが「石」を拾った。

だが、その「石」はAさんにとって何でもない。その辺りにあるものと変わりない。だから売ろうとしない。

 

Bさんは「石」をもらった。

宇宙に関する事が大好きで、会員制の宇宙クラブでもらった。その「石」は隕石だった。だから売ろうとしない。

 

二人の「石」は同じ「石」だった。

 

という例え話です。両者とも最後には売ろうとしませんでした。しかし、理由は全く違います。Aさんにとっては、「経済的価値がない」から、Bさんは「希少価値がある」から売らなかった。この価値が「ない」と「ある」を両立させると売らない、つまり「手放さない」ことになる。手放さなければ価格を下げて売ったりする事がないので、買われた時の状態で価値は保持しつづけると考られる。つまり、手放されないような販売方法をシステムに組み込む事がこれからの販売設計に不可欠なのではないかと考えた。

 

いやいや、それって一体どんな状態!?と首をかしげる方もいるだろうと思う。僕もここまでの考えに至って、そんな状態ってあるのかな?と思った(笑)近しい例でいうと、「コストコ」がいい線いっているのではないかと思う。店舗に入れるのは年会費を支払った会員限定で購入できるのもコストコ限定のものが多い。わざわざ会員費を支払ってまで買った商品を安値で転売する人は少数である事が予測できる。つまり、価値が下がりづらいのではないかと考える。

 

これからは販売するお客を限定し、閉じたネットワークで、コミュニティの色を強くして行く事が重要になりそうだなと思う今日この頃だ。上記で長々と書いた内容は、決してアパレルだけではなく様々な業界にも起こりうる。特に、衣食住である「家・アパレル・食事」に関することはレッテル、ルサンチマンを含みやすいのでこれからも激変しそうだ。あと車とかね(笑)

 

今日はこんなところで。