今日の芸術
「芸術は、つねに新しく創造されねばならない。けっして模倣であ
ってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったもの はもちろん、自分自身がすでにつくりあげたものを、ふたたびくり かえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、 独自に先端的な課題をつくりあげ前進していく芸術家はアヴァンギ ャルド(前衛)です。これにたいして、それを上手にこなして、よ り容易な型とし、一般によろこばれるのはモダニズム(近代主義) です。 もう少し、突っこんでお話ししましょう。ほんとうの芸術は、時代 の要求にマッチした流行の要素をもっていると同時に、じつは流行 をつきぬけ、流行の外に出るものです。しかも、それがまた新しい 流行をつくっていくわけで、じっさいに流行を根源的に動かしてい くのです。 芸術家は、時代とぎりぎりに対決し、火花をちらすのです。 一言でいえば、モダニスト(近代主義者)が時代にあわせて、その 時の感覚になぞらえていくのにたいして、ほんとうの芸術家はつね に批判的です。正しい時代精神が現存する惰性的なありかたに反抗 し、それをのり越えていくという、反時代的な形で、自分の仕事を 押し出していくのです。だれもがそうしなかった時期に、新しいも のを創造していくからこそ、アヴァンギャルドなのです。」(『 今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
独自に先端的な課題をつくり前進するアヴァンギャルド = 芸術
上手にこなしてより容易な型をつくり時代要求にマッチした流行要素 =モダニズム
また、モダニズムその時代の感覚になぞらえるが、芸術は常に批判的である。
「最初に抵抗によってつくられたものと、あとで抵抗がなくてつく
られたものとは、その中にこもったけはいがどうしてもちがいます 。内容がちがうのです。一方は、じっさいに激しさを内に秘めた、 純粋の芸術的な発想。たいへんな努力と精神力によって自分自身を うちひらいていった、苦悩によってだけつかみとる何ものかであり 、他方は、それを応用してつくった、惰性的な気分でも受けいれら れるようになったもの。一方が先駆的役割で、 いわば悲劇的なのに、一方は、だれにも安心されるあたらしさなの です。まさにこのほうは、モダニズムです。 流行に即したスマートさがあるのです。 モダニズムは、あくまでもここちよく、生活を楽しくさせるもので あるかもしれないけれども、ふるいたたせて、 生活からあたらしい面をうちだす、猛烈な意志の力をよびおこすも のではありません。」(『今日の芸術~ 時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
先駆的で悲劇的な芸術に対し、モダニズムはあくまでも心地よいスマートさがある。
「以上、私の言いたいことは、こうです。うまいから、きれいだか
ら、ここちよいから、――という今日までの絵画の絶対条件がまっ たくない作品で、しかも見るものを激しく惹きつけ圧倒しさるとし たら、これこそ芸術のほんとうの凄みであり、おそろしさではない でしょうか。 芸術の力とは、このように無条件なものだということです。これか らの芸術は、自覚的に、そうでなければならないのです。」(『 今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
うまくてはいけない。きれいであってはいけない。心地よくてはいけない。
「描きたいのに描かずにすましてしまう。そのあとに、自分ではっ
きりと気がつかなくても、なんとなく味気ない気分がのこる。そう いうことがつもりつもると、生活自体がひどく消極的で空虚なもの になってくるのです。しかも、たいていその空虚さを自分自身で気 がつかずにいるものです。 あなたは、展覧会とか劇場などの芸術鑑賞の場で、奇妙にあらたま った、重苦しいけはいを感じとられたことはないでしょうか。見る ものと見られるものとの間のよそよそしさ。それはなんとなくあな たの気分を空しくする。 「私も描けたらいいな」と思ったら、描いてみるべきだ、いや、描 いてみなければいけない、と私は言いきります。」(『今日の芸術 ~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「この「でたらめ」という言葉を、もうすこし突っこんで考えてみ
なければなりません。たとえば、新しいすぐれた芸術などを見て、 「あんなの、でたらめだ」と簡単に口先だけで言います。 それから「あんなの、だれにだって描ける」 ということをよく言います。たしかに、それはなにもむずかしい秘 伝や熟練が要るわけではない。だれにでも描けるにちがいないので すが、精神の自由がなければ、ほんとうは作りえないのです。 ですから、真の芸術家の名に値しない絵かきたちは、旧態依然とし て自然を見えるとおりに描く、つまり自然のまねをしてみたり、 外国のすぐれた画家や、新しい流行を追っかけたりして、 苦心惨憺ごまかしているのです。」(『今日の芸術~ 時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「ほんとうの自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものに
たよるのではなく、引き出してこなければならないものは、 じつは、自分自身の精神そのものなのです。 そこが芸術の根本なのですが、そういうもっとも本質的なことにな ると、とたんにハタと行きづまってしまって、絵が描けなくなると いうのはどういうことなのでしょう。 「自由に描いてごらん」「かってに描いてみろ」と言われて、しか もそのほうが、はるかにむずかしくて、描けなくなる。これは、 いかに「自由」にたいして自信がないかを示すものです。 このような矛盾した、不自然な心理状態を見すごしてはなりません 。これをどんどん追究して芸術、そして自分の生活の問題として、 はっきり考えてゆかなければならないのです。 鉛筆と紙さえあれば、どんなバカでも描けるものが、どうして描け ないとか描けるとか、ややこしい問題になるのでしょうか。 描けないというのは、描けないと思っているからにすぎないのです 。うまく描かなければいけないとか、あるいは、 きれいでなければ、などという先入観が、たとえ、でたらめを描く ときにでも心のすみを垢のようにおおって不自由にしているからで す。 うまかったり、まずかったり、きれいだったり、きたなかったりす る、ということに対して、絶対にうぬぼれたり、また恥じたりする ことはありません。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か ~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「あるものが、ありのままに出るということ、まして、それを自分
の力で積極的に押しだして表現しているならば、それはけっして恥 ずかしいことではないはずです。見栄や世間体で自分をそのままに 出すということをはばかり、自分にない、べつな面ばかりを外に見 せているという偽善的な習慣こそ、非本質的です。 自分をじっさいそうである以上に見たがったり、また見せようとし たり、あるいは逆に、実力以下に感じて卑屈になってみたり、また 自己防衛本能から安全なカラの中にはいって身をまもるために、 わざと自分を低く見せようとすること(よくある手で、古い日本の 社会では賢明な世渡りの術とされてきたのです)、そこから自他と もに堕落する不明朗な雰囲気ができてくるのです。」(『 今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「しかし、私はそういうめんどうくさい決意をすすめているのでは
ないのです。 私の決意というのは、第一には、きわめて簡単なことです。今すぐ に、鉛筆と紙を手にすればいいのです。なんでもいいから、まず描 いてみる、これだけなのです。要するに、芸術の問題は、うまい絵 をではなく、またきれいな絵をでもなく、自分の自由にたいして徹 底的な自信をもって、表現すること、せんじつめれば、ただこの〝 描くか・描かないか〟だけです。あるいはもっと徹底した言い方を すれば、「自信を持つこと、決意すること」だけなのです。 ぜったいにうまく描けないことはわかりきっています。だが、まえ に言ったとおり、下手なほうがいいのです。きたなかったら、なお 結構。くりかえして言いますが、けっしてうまく描こうと考えては なりません。 なぜでしょう。うまいということはかならず「何かにたいして」で あり、したがって、それにひっかかることです。すでにお話しした ように、芸術形式に絶対的な基準というものはありません。うまく 描くということは、よく考えてみると、基準を求めていることです 。かならずなんらかのまねになるのです。だからけっして、芸術の 絶対条件である、のびのびとした自由感は生まれてきません。それ なら描く意味はないのです。」(『今日の芸術~時代を創造するも のは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
とりあえず「描こう」。うまい絵を描くことが、綺麗な絵を描くことが目的ではない。描くか否か自信を持って決意することのみ。
うまいということは、「何かに対して」であり、それに引っかかろうとする行為である。基準を求めてはいけない。それは必ずモノマネになってしまうからである。
「自分かってに描いているはずが、いつのまにか知らずしらず人ま
ねみたいになってしまう。そこで、自分には独自なものが出せない 、と言って、がっかりする人がいるかもしれません。しかし、今す ぐに自由な気分で描けなくても、そんなことでガッカリする必要は ないのです。 自由であろうと決心したうえは、たとえ現在、自由に描けなくたっ て、それでもかまわない、というほどの自由感で、 やってみなければなりません。これはひじょうに大事なポイントで すから、よく心にとめてください。 自分は自由だ、という自信のある人だったら、どんどん描いてくだ さい。もし、自分がまだ自由でない、と考えるのならば、 それでもかまわないという気もちで、平気でやってゆくべきなんで す。「自由」ということにこだわると、 ただちにまた自由でなくなってしまう。これはたいへん人間的な矛 盾ですが。 人間というものは、とかく自分の持っていないものに制約されて、 自分のあるがままのものをおろそかにし、卑下することによって不 自由になるものです。まねごとになってしまうからといって、 自己嫌悪をおこし、絵を描くのをやめるというような、弱気なこだ わりも捨てさらなければなりません。それならばこのつぎは、似て も似つかぬように下手に描いてやろうというほどの、ふてぶてしい 心がまえを持てばよいのです。 いつでも無心に、こだわらずに描いたとしたら、そこに自由感があ らわされてくるにちがいありません。 まずいと思いながら、フッと気がついてみると、今までの自分の知 らなかった、なにかひじょうに透明な気分が、そこに定着されてい るのに気がつくことがあります。これが、芸術の出発点です。」( 『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「ここでもう一つ考えねばならないこと、それは、子どもの絵と、
すぐれた芸術家の作品との根本的なちがいについてです。 子どもの絵は、たしかにのびのびしているし、いきいきした自由感 があります。それは大きな魅力だし、無邪気さにすごみさえ感じる ことがあります。しかし、よく考えてみてください。その魅力は、 われわれの全生活、全存在をゆさぶり動かさない。―― なぜだろうか。 子どもの自由は、このように戦いをへて、苦しみ、傷つき、その結 果、獲得した自由ではないからです。当然無自覚であり、さらにそ れは許された自由、許されているあいだだけの自由です。だから、 力はない。ほほえましく、楽しくても、無内容です。」(『 今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「すぐれた芸術家の作品の中にある爆発する自由感は、芸術家が心
身の全エネルギーをもって社会と対決し、戦いによって獲得する。 ますます強固におしはだかり、はばんでくる障害をのりこえて、 うちひらく自由感です。抵抗が強ければ強いほど、 はげしくいどみ、耐え、そのような人間的内容が、 おそろしいまでのセンセーション(感動) となって内蔵されているのです。 すぐれた芸術にふれるとき、魂を根底からひっくりかえすような、 強烈な、あの根元的驚異。その瞬間から世界が一変してしまうよう な圧倒的な力はそこからきているのです。」(『今日の芸術~ 時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「日本からだれかすぐれた文化人・芸術家が出なければならないと
いう結論をくだします。「だれかが」なのであって、けっして「 自分が――」ではないのです。そんなことを言うものは、謙譲の美 徳の国のなかでは一人もいません。文化国家は美名です。しかしお たがいに責任をなすり合い、自分はのがれようとしている。 そのために瞬間瞬間に、責任のありかが不明になっています。 「お互いに」とか、「みんなでやろう」とは、言わないことにしな ければいけません。「だれかが」ではなく「自分が」であり、 また「いまはダメだけれども、いつかきっとそうなる」「徐徐に」 という、一見誠実そうなのも、ゴマカシです。 この瞬間に徹底する。「自分が、現在、すでにそうである」 と言わなければならないのです。現在にないものは永久にない、 というのが私の哲学です。逆に言えば、 将来あるものならばかならず現在ある。だからこそ私は将来のこと でも、現在全責任をもつのです。」(『今日の芸術~ 時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「公言は公約です。「おれこそ芸術家である」と宣言した以上、す
べてそれ以後のわざわいは、おのれだけに降りかかってくるのです 。だまっていれば無事にすんだものを。しかし、ノッピキならない 立場に、自分を追いこまなければいけない。言ったばかりに徹底的 に、残酷なまでに責任をとらなければなりません。言ったことが大 きければ大きいほどそうなんです。 もし責任がとれなかったら、たいへんなアホウ、笑われ者になり、 たちまち社会的信用を失ってしまいます。「世間はみんないいかげ んなんだから、まあこのくらいで」などと調子をおろしたりするこ とはもちろん、人に同情を求めたり、よりかかったりすることはコ ンリンザイできません。あくまでも自分の言葉にたいして百パーセ ント責任を負わなければならないのです。」(『今日の芸術~ 時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)
「おのれ自身にたいしては逆に残酷に批判的で、つまり謙虚でなけ
ればならないのです。日本ではどうもこれをとり違えて、謙虚とい うのは他人にたいしての身だしなみくらいに思っている。だから、 「いいえ、私なんか、とても……」などと言って安心させておいて 、けっこう腹の中ではうぬぼれているか、でなければ、とことんま で卑屈になりさがっているかです。 自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きな ものに賭けることになるのです。だから猛烈に自分を強くし、 鋭くし、責任をとって問題を進めてゆくべきです。ただ自分を無に してヘイヘイするという謙譲の美徳は、いまお話ししたように、 すでに美徳ではないし、今日では通用しない卑劣な根性です。すで に無効になった封建時代の道徳意識の型が陰気に根づよくのこって いるのです。」(『今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)』(岡本 太郎 著)より)