イワケーン日記

何かを巻き起こす良いハリケーンでいたい。建築・インテリアデザインの仕事がメインです。このブログに書いているのは正しい意見ではなく、「僕が感じたこと」の記録です。@iwakeen1017

【読書感想】人生の短さについて セネカ

 

1.セネカとは何者か。 

本書は、古代ローマの哲学者セネカの思想に触れるための代表作の一つです。セネカが生きた1世紀のローマは激動の時代でした。初代ローマ皇帝のアウグストゥスの優れた政治により一時は収まりを見せたローマも、アウグストゥス没後は、わずか50年間でティベリウス、カリグラ、クラウディス、ネロという悪名高い皇帝らを次々に生み出して不安定な時代に突入していく最中でした。セネカはその不安定な時代にローマ帝国の政治の中心で活躍した人物です。カリグラ皇帝の時代に政治の世界に入り、皇帝と確執も経てクラウディス皇帝の時代には、コルシカ島に8年間の追放をされる苦難を過ごしました。次の皇帝であるネロの教育者として復帰後、ネロが皇帝に就任した際は補佐役として活躍します。しかし、最後はネロに謀反の疑念も持ちかけられ自ら命を絶つことになるのです。 

激動を生きたセネカは、古代ギリシャで生まれた哲学の学派である「ストア派」の教えを支持してきました。ストア派哲学はストイックの語源にもなっているため想像しやすく、理性に従い禁欲を推奨するもので実践哲学です。強い精神力をこの哲学によって鍛錬が故に波乱の人生をも乗り切ることができたのでしょう。2000年前に書かれたその真髄を本書で味わうことができます。

 

2.人生の短さについての内容

 さて、本書はセネカがパウリヌスという若い人物に当てて綴られた文書です。当時、国家の食糧管理の仕事に就いていたパウリヌスの職務は非常に責任の重く多忙を極めるものでした。それに対し閑暇な生活を送る様に勧めています。

 

人生は使い方次第で長くなる。短くしているのは我々の無駄な時間の消耗である

パウリヌスさん、大部分の人は自然の悪意を嘆いてこう言っている「我々が生きられる時間はとても短い。しかも我々に与えられる時間はあっという間に素早く過ぎ去ってしまう」。だが決して我々が手にしている時間は、決して短くない。むしろ我々がたくさんの時間を消費しているのだ。実際、人の生は十分に長い。そして偉大な仕事を成し遂げるに足る時間が惜しみなく与えられているのである。ただし、それらは人生全体が有効に費やされるならの話である。つまり、我々は短い人生を授かったのではない。我々が人生を短くしているのだ。我々は人生に不足などしていない。我々が人生を消費しているのだ。

 

これは本書において最も重要な指摘です。過去の偉大な人間から今日の電車に乗っているであろう見知らぬサラリーマンまで、おそらく全ての人は「時間がもう少しあれば、人生は短い」と考えているでしょう。しかし、その考えにセネカは待ったをかけます。人生は長い、ただ短くしているのは他ならぬ自身の無駄な行動による時間の消費が原因ですよと説いているのです。それでは具体的にどの様な行動が時間の消費に当たるのでしょうか。続きを見てみましょう。

 

3.人生を無駄にしている具体的な時間

ある者は飽くなき貪欲に取り憑かれ、ある者は無益な仕事に汗を流す。ある者は酒浸りとなり、ある者は怠惰にふける。ある者は政治への野心に終われ疲れ果てる。ある者は感謝もされないのに偉い人たちにおもねり、自分から進んで奴隷の様に奉仕して見をする減らす者たちもいる。また、私は老人の中から一人を捕まえこう言ってやりたいのだ。あなたの人生の総決算をいたしましょう。計算してください。あなたの生涯から債権者によって奪われた時間はどれだけですか。愛人によって奪われた時間はどれだけですか。手下によって奪われた時間はどれだけですか。夫婦喧嘩によって奪われた時間はどれだけですか。務めを果たすために街中を歩きまわった時間はどれだけですか。次に自らの招いた病気によって失われた時間を加えなさい。あなたの手元に残る年月は今足し合わせていった失われた時間より短いのですよ。しかもそれらを失う時、あなたは何を失っているかに気づいていなかったのです。もうお分かりでしょう。あなたは人生を十分に生きることなく死んでいくのです。60歳で仕事から解放されるからそのあとに好きな事をしようと考えているが愚かな事だ。人生の残りカスを自分のためにとっておき、好きな精神的活動のためになんの仕事もできなくなった時間しか充てがうなど恥とは思わないのか。生きる事をやめなければならない時に生きる事を始めるとは、遅すぎるのではないか。その様なわけで、ある人が髪の毛が白いとか顔にシワが寄っているからといって長く生きてきたと認める理由にはならない。その人は、長く生きていたのではない。単に長く存在していただけなのだ。

 

一部を抜粋しただけであり実際の文章にはもっと書かれています。列記してみると消費される時間の種類に古代も現代も差がないことに気がつきます。つまり、現代の私たちにも直結する具体的な無駄な消費時間であると理解できます。一般的に無駄な時間をイメージした際に、念頭に浮かぶのは、ボーッとしたり、ダラダラしたりする時間ですが、それらはもちろんセネカは他人や他用によって奪われる時間も自分と向き合うことができないとし無駄と指摘します。定年退職や単に存在していただけと指摘があり私は思わず怖くなってしまいました。自分の時間と他とを明確に区別しなければいけません。その判断は自分で決めるべきですが、本書の具体的な指摘はその参考になるのではないでしょうか。そうでなければ「〜だから」という後付けの理由でいくらでも無駄な時間を作り出すことができてしまうからです。

 ではセネカはこの様な時間を削り取りその代わりにどの様な時間を自分に費やせばよいと示すのでしょうか。

 

4.生涯の無駄の時間を削り、閑暇に投じよ

多忙な生活から離れ、本当の人生を生きなさい。

あなたの仕事は国民の生活に直結する非常に重要な職務である。しかし、あなたの人生を幸福をもたらしてはくれない。よく考えてほしい。あなたは若い頃から、教養を身につけるためにあらゆる教育を受けてきた。だがそれは大量の穀物を上手に管理するためではなかったはずだ。あなたが大志を抱いたのはもっと崇高な仕事だったではないか。几帳面で仕事熱心な人間なら他にいくらでもいる。荷物を運ぶには、歩みの遅い家畜の方が、血統の良い馬よりもはるかに適している。わざわざ重い荷物を載せて生まれながらの俊足を台無しにしてしまう様なものがどこにいるというのか。その様な多忙ではなく閑暇を求めなさい。ただし、閑暇に暇な時間を求めてはいけません。自分自身が本当になすべきことに向き合うために使いなさい。

 

こちらも一部抜粋及び要約した内容です。閑暇の対立概念である多忙とは、たくさんの仕事や用事に終われて忙しいことです。忙しいは「心を亡くす」、つまり心に余裕がない状態を指しています。では仕事や用事に追われなければ閑暇を得ることができるのか。実はそれだけでは不十分です。解放された自分の時間の中に、自分の心が戻っていなければなりません。自分が戻るとは、その時間の中で我々が自分自身と向き合い、自分が本来なすべき事をしている状態です。この時、自分自身と向き合うことを嫌がり、なすべき事を何もなしていない状態が、セネカの批判する「暇な時間」と捉えることができます。

 

5.閑暇な時間とは、英知を求めることである

この様にセネカの言う閑暇の中で我々がなすべきこととはなんでしょうか。セネカによれば、それは、英知を求め、英知に従って生きることです。英知とは何を指すのか。またどの様にして求めるのか、ヒントは過去、現在、未来の時間の捉え方にあるとセネカは言います。

 

真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある

 全ての人間の中で閑暇な人と言えるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。その様な人だけが生きていると言える。その様な人は、自身の人生を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、全ての時代を付け加えることができるからだ。我々はソクラテスと共に議論することが許されている。カルネアデスと共に懐疑することが許されている。ストア派の哲人達と共に人間の性に打ち勝つことが許されている。彼らはいつだって時間を空けてくれるしあなたに死を強要しない。むしろあなたに死を共有するだろう。これらに対し、過去を忘れ現在をおろそかにし、未来を恐れる人たちの生涯は極めて短く不安に満ちている。これらの人々は死が間近になって自分が長い間ただ多忙なばかりで、何も意味のある事をしてこなかったことに気がつく。しかし、その時にはもう手遅れなのだ。

 

セネカは「過去」を最重要として挙げています。しかし過去の意味は単に自分の人生の過去のみだけではなく、全ての過去を指しています。つまりは人類全体の過去という事です。それを意識することができれば、過去に哲人らが検討してきた内容にいつでも議論を交えることができ収穫することが無限にあると示し、これを英知であると定義します。未来は不確定であり予測が困難です。今を失わないためにセネカは、過去としっかり向き合うべきだと言っています。

 

6.感想

 本書の出会いは、時間は有限であるから自分で何に使うべきかしっかり検討する必要があると考え始めた頃でした。しかしその考えていた頃は二十代後半で、身体の最盛期の時期を過ぎた頃だと思っておりました。そのため本書を読んだときは非常に落ち込みました。何故ならば本書に書いている無駄な時間が大いに当てはまったからです。しかし、そのおかげか自分にとってこれは好きでこれは苦手であると言った感性は磨かれた気がします。それからというもの閑暇な時間を過ごすため哲学書やそれらに類する本を探し、自分が読みやすいなと感じる本を手に取り自己内対話を日々行なっています。セネカの人生のお説教とも取れる指摘は、現代において中々言ってくれる人はいません。その様な考えをしっかり携えている方は稀であり、自分や他人の人生を大いに否定してしまう強烈な内容が故であると私は思います。

 本書を読む中で私が批判的に感じる部分もありました。それは老人になったからと言って何かを始めることが遅すぎるということでした。確かに若い頃から始めた方が偉大な仕事に結びつくかもしれません。しかし、世の中の、教養があり、かつ能力が高い人の全てが成せるわけではありませんし、老年になったがゆえに見えていることもあるのではないかと考えるからです。サミュエル・ウルマンの「青春とは心の若さ」という水々しい詩の様に身体と心は常に一致しているわけではないからです。

 ただ、いずれも抑えるべきなのは、自分自身に向き合い、過去と向き合い、理にかなった事に目を向けることかもしれません。